【逆境の連続】9歳で父を亡くした壮絶な体験を経て令和の怪物は強くなった【佐々木朗希物語】

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今回の動画では、日本を代表する投手となりつつある佐々木朗希選手の【20年間の人生】をたっぷりとお届けしたいと思います。
令和の怪物と称された佐々木朗希選手。彼の過去を紐解いていくと、壮絶な体験や挫折、数々の悔し涙がありました。しかし、それを乗り越えたからこそ、穏やかでありながら、芯が強く、しなやかなメンタルが作られたのだと感じられます。
プロ入りまでの佐々木選手はいったいどんな人物だったのか。さらには、どのようにして「令和の怪物」が誕生したのか。その道中には、仲間や地元を大切にする、心優しい佐々木朗希選手の姿がありました。

▼壮絶な地震体験〜3.11の被災者だった〜
佐々木朗希選手が生まれ育ったのは、岩手県陸前高田市。

スポーツが好きな両親と、兄、弟に囲まれて暮らしていた佐々木選手は、兄の背中を追いかけ、小学校3年生のときに地元の少年団で野球を始めました。佐々木選手の兄・琉希さんは、後に大船渡高校で4番を打つほどの実力者でした。父の功太さんは琉希さんに対してそれはそれは厳しく指導をしたのだと言います。その甲斐もあって、琉希さんは地元では上手いと評判の選手でした。そんな兄に追いつけるよう、朗希選手も一生懸命野球に取り組みました。休みの日には、父と兄弟三人で野球をして遊ぶほど、佐々木家はみんな、野球が大好きだったそうです。

ここまでは、男三兄弟でお父さんも野球が大好きな、とても幸せそうな、ごく普通の野球一家です。兄弟3人でお互いをライバル視しながら、野球の練習に励んでいたことが想像できます。

そんな矢先、佐々木選手にとって忘れることのできない日がやってきます。2011年3月11日。東日本大震災が、陸前高田の街を襲ったのです。

佐々木選手の家は津波で流され、そして、父と祖父母が帰らぬ人となってしまいました。当時、朗希少年が9歳のときの出来事でした。

佐々木選手は、10年前の当時のことについて次ように語っています。
「悲しいことではあったんですけれど、すごく今に生きているなと。当たり前が当たり前じゃないとか、今あるものがいつまでもあるわけじゃないとか、そういうのを思い知らされました」

亡くなられた父・功太さんは、人望が厚い人格者でした。功太さんをよく知る方は功太さんについて次のように語っています。

功太さんをよく知る人「誰にでも分け隔てなく接する人だった。普段は明るくおもしろく、怒る時はしっかり怒り、自分のことより、他人のことを考えて動く人だった」

町内会では、夏祭りなどのイベントごとに積極的に参加するなど、いつも周りを盛り上げていたそうです。誰もが功太さんに付いていく、そんなカリスマ性のある人気者でした。

そんな人格者の父親を突然亡くしてしまい、当時はまだ9歳の小学生だった朗希少年は、かなりのショックを受けたことでしょう。
しかし、そんな朗希少年を引っ張ってくれたのが、3つ違いの兄・琉希さんでした。兄の琉希さんは、朗希少年に対してとても厳しく接したのだと言います。母親の陽子さんは当時の様子について次のように語っています。
母親「私から見ても可哀想なくらいでした。琉希が朗希を褒めたのを見たことがない」

亡き父親から厳しい指導を受けてきた琉希さんは、彼なりに、父親の代わりを務めようという思いがあったのかもしれません。そのことを、佐々木朗希選手は「小さいころから兄に負けないように野球を頑張ってきた」と語ります。琉希さんの厳しい指導が、佐々木選手を心身ともに鍛え上げたのでしょう。佐々木選手の負けず嫌いな性格は、そこから出来上がったのかもしれません。

▼幼少期の朗希少年
兄・琉希さんにしごかれながら、朗希少年は幼少期の頃から恵まれた野球センスを発揮していました。投手だけでなく、打撃センスも抜群。おまけに俊足と走攻守の三拍子が揃ったエース選手でした。
そんな小学生時代の佐々木朗希選手について、非常にドラマティックなエピソードがあります。
佐々木朗希選手が小学6年生のとき、被災地の子どもたちを応援しようと「リアスリーグ」という野球大会が開かれました。当時、震災の影響で東北の子どもたちは、野球をプレーする環境を奪われ、プロ野球選手になる夢を諦めざるを得ない子どもたちもたくさんいました。そこで開催されたのが、「リアスリーグ」でした。そして、ここからがドラマティックなところですが、この大会はなんと当時の千葉マリンスタジアムで行われていたのです。
後にロッテに一位指名で入団する佐々木選手は、その6年前にすでに千葉マリンスタジアムでプレーをしていたのです。なにか運命のようなものを感じさせられますよね。

ちなみに、佐々木選手が所属していた「猪川野球クラブ」はこの大会で堂々の優勝を飾りました。まさかこのときの佐々木選手は、自分がプロ野球選手になり、このスタジアムで完全試合を達成するなんて思ってもみなかったことでしょう。今改めて振り返ってみると、ここでの優勝は佐々木朗希選手の野球人生を支える大きな成功体験となっていたのかもしれません。

▼中学時代の挫折経験
その後、中学に入学した佐々木朗希選手。相変わらず身体能力は抜群で、同年代の子の中ではずば抜けていたそうです。当時、大船渡市立第一中学校野球部で佐々木選手を指導していた鈴木コーチは次のように語っています。
鈴木コーチ「とにかく活発な子で、スポーツテストではハンドボール投げや50メートル走など、すべての項目でずば抜けていた。あと、負けず嫌いでしたね。野球については、野球脳が賢いとでもいうのかな。たとえば、野球の技術書を読んで、自分もこう投げたいというフォームが見つかったら、マウンドでそれを再現する。その能力が非常に高かった」

当時から類稀なる運動センスを発揮しながら、自分の頭で考え「もっと上手くなるために」と技術書を読んでピッチングフォームを改善するなど、中学生とは思えないレベルで努力することができていたそうです。

しかし、そんな佐々木選手に大きな壁が立ちはだかります。それは、体の変化。成長期を迎えた佐々木選手の身長は、中学3年間で20センチ以上も伸び中学3年生にして186センチの身長があったといいます。野球選手として体格がよくなることは良いことだと思ってしまいますが、成長が急激すぎて体がついていかなかったのでしょう、佐々木選手は慢性的な成長痛に苦しめられ、まともに野球をプレーできない期間もありました。野球が好きだった佐々木朗希選手にとって、この期間はとてもつらかったことでしょう。「野球を辞めたい」と本気で思ったこともあったといいます。

そして、中学3年生の最後の大会。佐々木朗希選手がマウンドに上がることはありませんでした。急激な成長のせいで、腰を複雑骨折していたのです。病院の先生からは、次のような診断を受けたそうです。
「だましだましでは投げられるし、大会で勝てるかもしれない。でも、けがが治ったら、もっとすごい選手になる可能性がある。今は無理をするべきではなく、高校生になった将来のことを見据えて怪我を治すことに専念した方が良い」

このような診断を受け、チームの判断は「佐々木選手の将来を守る」という判断となりました。指導をしていた鈴木コーチは、当時について次のように語っています。

「朗希は投げたかったと思います。最大の目標を最後の大会に置いていましたから、夢を奪われたような気分だったかもしれない。朗希は悔しくて、ボロボロ泣いていました」

この悔し涙も、今ではきっと佐々木選手の糧となっていることでしょう。彼が経験したすべての出来事が、今の佐々木朗希選手を形作っているのです。

この動画について
URL https://www.youtube.com/watch?v=eu0j-E1CYO8
動画ID eu0j-E1CYO8
投稿者 ホマレックChannel
再生時間 30:20

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